ain't that just the way

よしなしごとをそこはかとなく

人形感謝祭の話

先日、40年ほどお世話になった五月人形を神社に納めてきた。
いつもお世話になっている神社では「人形感謝祭」という祭事で、年に一度、3月3日に行われている。

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件の五月人形を神社に納めようと思い立ってから、時季外れではあるものの、しばらくの間、身近に置いてじっくりと向き合った。
そして、じっくりと語り合った。
結果、向き合えば向き合うほどに、感謝の念しか湧いてこなかった。
様々な厄を人形が代わりに引き受けてくれたのであろうことをひしひしと感じた。
ゆえに、感謝感謝感謝。

ただ、何度か「もうちょっと手元に置いておいても良い気もする・・・」という想いが心をよぎった。
そんなとき、人形と目が合うと「さすがにもう帰るね」と言っている気がした。
ちょっと寂しいけれど「そうか・・・」と心でささやき返す自分がいた。
今までいろんな厄を引き受けてもらったからね。
いつまでも面倒見てもらうわけにもいかないし。
などと一人ぶつぶつ言いながら何度も一人自分を納得させた。

3月3日当日。
拝殿横に設けられた受付で手続きを済ませて志を納める。
その後、本殿でお祓いに立ち会わせていただいた。
祝詞を奏上し、幣でばさりばさりと祓っていただいた後、本殿のすぐ近くまで上がって拝礼させていただいた。
これだけでもずいぶんと清らかな気持ちになり、不思議なことに人形に対しての執着がとても薄れていた。
つまりこれが「縁が切れた」ということなのだろう。
正直、もう未練も執着もなにも感じない。

一通りの儀式が終わったあと、直会の甘納豆とお札をいただき、改めて神殿に拝礼し、神職に感謝。
ああすっきり。
ほんとうにすっきりした。

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今回あらためて気づいたのは。
お祓いというのはとても大事な行為で。
気になっていることがあるならば、志を払ってさっさと祓ってもらうべきなのだと思った。
それが障りであれ、厄災であれ、執着であれ、願望であれ、同じことだ。
お祓いに伴う「志」という形の対価を支払うことによって、自分の執着を手放すことができるというところに真理がある。
言わずもがな今の時代でいう「志」とは「金銭」つまり「お金」のこと。
お金だけに現金な話だけれど、支払った分だけ「これだけ払ったのだから効果あるに決まってるよね」という気持ちになれるのが現実であり、それが人間というもの。
お祓いの対価として差し出す「志(お金)」とは執着を手放すためにかかる費用だと思う。
今風に言うと「サービスへの対価」とも言える。
なんというか、「神仏にお金払って助けてもらうってどうなの?」って思う気持ちが「志」というオブラートをかけた言葉になっているのだろうなとあらためて思った。

神社におわす神様はサービス業。
金の力は神をも動かす(神にもよる)。

その直後、金では動いてくれないであろう神様のところへ参拝に行った。
ああ、ありがたや。ありがたや。