断捨離
自分は比較的ものをあまり持たないほうだと思うのだが。
それでも、使わないけれどなんとなく捨てられずに持っているもの、というものはあって。
急に物置の片隅にそんなものたちがあることが気になり始め、断捨離と呼ばれる行為を行うことにした。
お金に換えられるものは、お金に換える。
捨てるべきものは、捨てる。
こういうのは勢いと思い切りが大事だ。
しかし、お金に換えられず、捨てることもままならないものもある。
思い出が詰まったものだったり、願いや心がこもった贈り物だったり。
処分に困るもの。というやつだ。
今回の自分の場合は、五月人形と鉄兜がそれに相当する。
この人形の由来は今から遡ること40年、私が生まれたときに父方の祖父母が私のために贈ってくれたものだ。
実家を出るときに、この五月人形は実家に置いてきたのだが、なぜか数年前から私の手元にある。
手元にあるからといって、いい年こいた男が五月人形を端午の節句に飾るかというとそうでもなく。
私の手元に来てからはずっと箱に入ったままで物置の片隅に置かれたままだった。
五月人形というのは、お守りと同じような意味合いを持つもので、男の子に降りかかる厄を身代わりとなって引き受けてくれるありがたいものだ。
女の子にとっての雛人形にも同じような意味があるのだろう。
実のところ、私は他人の家にある五月人形やら雛人形やらが昔からとても怖く、不気味でしかたがなかった。
他人の厄をたっぷり吸い込んだ代物であったせいもあるのだろうなあと、今になって思う。
で、物置の住人となっている私の五月人形。
今年の初詣の際に訪れた神社で、五月人形をおさめることができるかどうかを聞いてみた。
すると、3月に人形供養祭が執り行われるとのことで、その時におさめることができるとのことだった。
ということで、この人形供養祭におさめることにした。
そんなこんなで、もう2月も半ばにさしかかり、もうすぐ件の五月人形&鉄兜ともお別れするときが近づいてきたかと思うと、少しだけさみしい気がした。
なので、少々時季外れではあるが、人形供養祭の日まで自分の近くに飾っておくことにした。
鉄兜を出してみると、不思議と「まだ手元に置いておいてもいいかな・・・」という気がした。
そして、人形を出してみると「ああ、やっぱりおさめなきゃだめか・・・」という気になった。
人形を見つめていると、いろんなものを代わりに引き受けてくれたんだなー・・・としみじみ感じてしまう。
40年の間、身代わりになってくれていたのだから、もうさすがにね。
物置にしまいっぱなしの時もしっかり仕事してくれてたんだなーと思うとほんとにありがたい気持ちでいっぱいになる。
人形供養祭まであと半月くらい。
大きくなったおれを近くでしっかり見ていてくれ。